9歳の時、人の価値観に虚しさを感じた
こんにちは。フリーライターの林谷です。今回話す内容は一度こちらの記事で触れた、○×ゲームでの一件になります。まあ、どれだけ小さな武勇伝を引っ張るんだと思う方もいるかも知れません。ご容赦ください。
超福祉展に出演した際も、少し触れている話題です。
ただ、今回はその事象から感じたことがメインです。ですからどんなことがあったの?と気になる方は僕の過去ブログ『Self Innovation』のこちらの記事をご覧ください。
とりあえずここの記事の内容が分かりやすいよう、かいつまんで起きたことの要点を伝えておきます。
(おおむねの内容は…)
①小2のころ、全校集会の○×ゲームで自分一人だけ誤答して大笑いされた
②小3のころ、懲りずに集会の○×ゲームで、全校生徒の中ひとり違う答えを選んだ
③このときには事前知識があって、勝算があった
④正解し、全校生徒から胴上げされた
というストーリーです。
相手は全校生徒(クイズの担当除く)でした。その反対を選んだ僕は、まさに『マイノリティ』になります。その後起きた結果によって起きたことに、虚しさを感じたのです。
ではなぜ『虚しさ』を感じたのか。またマイノリティに関して大切なことに気付いたポイントをお話ししたいと思います。
発達障害にも通ずる、マイノリティに関して感じた虚しさ
①多数派のほとんどが、自分の意思で決めていない
1つ目は『多数派のほとんどが、自分の意思で決めていない』ことです。
これは本当に思い出すたびに空しくなります。もちろん○×ゲームですから、他のことになれば結果は違ってくるかも知れません。ただ、このときに『みんながそうだから』的流れの嫌らしさを子供なりに感じたことを覚えています。
『どうして自分で考えないんだろう?』当時もそう不思議に思っていました。
②多数派であれば絶対、正義だと勘違いしている
2つ目は『多数派であれば絶対、正義だと勘違いしている』ことです。
『同じ考えをする人が多いというだけで、間違いない』そう思う人が本当に多いなという印象をこの時に受けました。
2年生のときには、クリスマスツリーはもみの木じゃない、スギの木だろうと真面目に考えて僕だけ誤答しました。その時目の前の多くの生徒の嘲笑。『そんなことも知らないの?』的引き気味の顔。今でも覚えています。
いったいこの中にどれだけ本当にもみの木だと思って笑った人がいたのでしょうか。
3年生のときに一人だけ違う答えを選んだ時も、同じ反応です。『あいつ懲りてねえな』みたいな顔です。
問題自体でなくて、周りの動きを見て正解を判断してる。それが絶対だと思ってる。これって今の生き方にも置き換えられる気がしてならないんです。そこに『自分』はあるのか、って。
③結果次第で忘れたように態度が変わる
3つ目は『結果次第で忘れたように態度が変わる』ことです。
3年のときの問題。
『子供の歯は28本、大人の歯は32本、ブタの歯は44本』
もちろん、ブタの歯の本数は知りませんでした。ただ子供と大人の歯の本数は合っていることを僕は知っていたわけで、ブタの本数だけ違うから正解を×とすることはないという『勝算』がありました。
○×ゲームで○×を問う項目が二つ以上あることが本来おかしいんですけど、そこは小学生なので良いとして。○か×かなのですから、全部○か全部×かしかないだろう。二つ確実に○だからブタも○だという判断をしたうえで選んだんです。
でも正解を言われるまでは、僕は周囲から大笑われものでした。
『あいつまたやってるぞ』
『バカじゃねえの』
『顔が悪魔だな』
最後のだけちょっと未来の話が割り込んできましたが、そんな風に見られたんです。
でも、僕が合ってました。その瞬間周囲からは英雄扱い、胴上げされました。嬉しかったのは2、3秒くらい。以降は虚しさが来たんです。周囲への疑問がわんさか沸きました。
『さっきまで散々バカにしていたことへの責任はどこに行ったんだ?』
『お前ら”自分”はどこ行った?』
『そんなにコロコロ態度を変えて、惨めじゃないか?』
『せめて最後まで¨反対側¨を貫いてくれよ』
こんな思いが込み上げてきたことを覚えています。そうして結果次第で態度を変えられたことに気持ち悪さを感じたのでした。
マイノリティに対しての気づき、感じたこと
バカにされていても、結果を出せば全部が変わる可能性もある
まずこの件を思い出していつも思うのは、『例え今バカにされていても、結果を出せば全部が変わる可能性もある』ということです。
今も僕は『発達障害』『HSP』など『何人に一人』と言われる部類のマイノリティです。職場で馬鹿にされることもありました。頑張っても『障害者の割には』の枠を超えられず悔しい時もありました。
こうした人生や社会と、○×ゲームを同じ基準で見るのはリスキーかも知れません。ただ、この時の僕は結果を出し切れていなかったとも思っています。
○×ゲームの時も、僕『だけ』が正解したことで『希少価値』を作れた。これと同じ原理でマイノリティが『希少価値』になるのは、やっぱり結果を出すしかないと考えているのです。
例えば難しい話ではありますけど、僕がASDであろうが、HSPであろうが、このブログで1億円の広告収入を得ているブロガーだとすれば、周囲が差別することもごく少なくなるはずなんです(果てしなく遠い道のりですけど)。
ですから障害名などより『結果』が前面に出てくるような人間になることで、差別が本当の意味で『個性』に変わるのではと考えています。
おわりに
発達障害を持つことで『バカにされている』『差別されている』と感じている、苦しんでいる、そんな人、多いと思います。残念ですけど『障害は個性だ』と叫ばれていても、その個性にどれだけの方が賛同できているでしょうか。
少なくとも僕は、賛同していません。その言葉だけでは。
個性にするには、もう一歩踏み出さないといけない気がするんです。これはマイノリティでも発達障害でも関係なく、どんな人でも固有の価値を見出すには、周囲から見て『価値』と感じる結果を出すことが大切だと考えています。
ただ、そういう意味で『何でも難なくこなせる』傾向があるいわゆる『定型』『健常』と言われる方たちよりも、『特定の方法でしかできない』マイノリティの方が行動に『覚悟』を持てる可能性が高いと思っています。その覚悟のぶん、結果にも辿り着きやすいはず。
こんなことを言っていますが、僕もまだ『周囲の価値観が変わるような結果』は出せていません。まだ馬鹿にされる側であると思います。でも、そこから抜け出そうと日々取り組んでいるのです。
差別が辛い、そう苦しんでいるのなら、一緒に結果を出すために取組んでみませんか。自分にしかできないことを突き詰めて考えてみませんか。僕はそうして、いつか価値観がひっくり変わることを信じて、前に進み続けていきます。
【セットで読むと良いかも】
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