ASDを持つ僕が嫌いな言葉を紹介します
『“適当に”やっておいて』
『“いつもの感じ”で』
『“あれ”気を付けておいてね』
『“お前のセンス”で買ってきてよ』
こんにちは。フリーライターの林谷です。いきなりですが、僕の苦手な言葉を並べてみました。今回のテーマは、このような『曖昧な表現』についてお話しします。
ASDの特性で、曖昧な指示や反応が苦手なケースがある
見たまま、聞いたままを忠実に理解しようとする
僕は発達障害の一つ、ASD(自閉症スペクトラム)を持っています。このASDを持つ人が苦手とすることのひとつに、『曖昧な表現』があるのです。これはASDの特徴で『見たまま、聞いたままを忠実に(正確に)理解しようとする』ことが関係してきます。
この特徴の影響で、正確に、大切に物事を行おうとするメリットもあります。しかしその一方で、曖昧な表現を多く使うコミュニケーションにおいて、言葉を『鵜呑み』し誤解やすれ違いを生みやすいというデメリットもあるのです。
また、言葉のピンポイントの意味にとらわれ過ぎて、相手の意思の全体像(何が言いたいのか)が見えてこない、というケースに苦しむこともあるのではないでしょうか。
曖昧なイメージを『具体化』できない
僕もこのような曖昧な表現が原因でコミュニケーションに苦しんだ事があります。
そもそも言葉は、『その意味でしか使われない』と言うケースが少ないと思っているのです。慣用句や例え表現、そのコミュニティ内で何となく風習として使われている言葉…こういったものがあると思います。
この影響で、一つの言葉でもいくつもの意味を持つことが多いのではないでしょうか。
こうなると、『○○(言葉)』を聞いて、数ある意味のうちのどれかを言葉以外の情報からキャッチして意図をつかみ取る…これができずに苦労します。ですから冒頭の言葉を言われたら、こう思います。
『“適当に”やっておいて』
→「適当」ってどれくらい?
『“いつもの感じ”で』
→「いつも」っていつのこと?
『“あれ”気を付けておいてね』
→「あれ」ってどれ?対象の候補がいっぱいあるよ…
『“お前のセンス”で買ってきてよ』
→僕のセンスって何が正解なの?
こんな感じです。本当に苦労しました。こういう返し方をして、『そんなの言ったとおりだろ!』と不満がられたこともあります。
僕の当時の親友がこういった曖昧表現をよく使う人だったので、尚更苦労しました。
こうした曖昧なものに対し、『具体化』『具現化』させることにすごく疲れるイメージがあります。
そのため聞き取りだけでなく、自分の中の曖昧な気持ちをうまく伝えられない、というケースもあったのです。
具体化に困るのは曖昧な指示や言葉だけではない
また、曖昧さに困るのは『指示』や『言葉』だけではありません。表情や声色など、『反応』にあっても同じことがあります。
自分が言ったことに対してあまり反応がなかったり、複雑な表情をされたとしましょう。その時僕は『結局はどう思っているんだ?』と深く悩みます。
僕の場合HSPも持っているので、感覚的に「暫定の正解」は分かるのだけれど、それは自分で思っているだけであって絶対的な正解ではないと考えます。そのため答えが見えず余計にイライラするときもありました(ASD・HSP両方持つ僕に関してはこちらの記事をご覧ください)。
やっぱり、これまでにコミュニケ―ションで多く失敗してきた分、どうしても今の話し方が合っていたのかどうか『正解』をひどく気にするんですよね。
だからこそ○か×かがはっきりと分からないと、以降どう行動するべきかも見えない、そんなことがありました(特に仕事など責任が伴う場面)。
今回伝えたいこと~相手の気持ちを受け入れるヒント~
『曖昧な指示や表現を理解する方法について』が今回のテーマではない
実は今回伝えたいことは、『いかに曖昧な表現を理解するか』ではありません。はっきり言います。理解するのは難しいです。仮に頑張ればできるとしても、そんな『常時界王拳10倍』のような生き方をしていたら疲れてしまうでしょう。
僕がその『界王拳150倍』をよく使ってASDを持たない人に合わせようとするタイプだったので、痛いほどわかります。
今回お伝えしたいのは『他人(ASDを持たない人)を審判(ジャッジ)として考えるのを止めよう』ということです。これが、相手の気持ちを受け入れるヒントになるのではと考えています。
相手が発達障害ではなくても、『コミュニケーションの先生』ではない
曖昧な表現を言う相手が発達障害を持っていないいわゆる『定型』の方だったとしましょう。
確かに発達障害のような理解面での苦労は少ないかもしれません。ただ、常に完璧なコミュニケーションができる、とは違いますよね。正直、障害を持つ方より引っ込み思案だったり、会話が下手な方もいるでしょう。
僕もそうでしたが、どうしても発達障害(ASD)を持つ方は『自身がコミュニケーションが苦手』というコンプレックスを持っていることがあります。
そのためについ目の前にいる人間を「審判」や「先生」のように考えて関わろうとしてしまうことがあるのです。要はコミュニケーションに関して、採点やジャッジを求めようとすることになります。
そのため的確な回答が得られなかったときに、不満を持ってしまうのです。『審判なんだからジャッジ間違えるな!』『先生が勉強間違えてどうするんですか?』と言わんばかりに。僕はこれに対する疑問や不満が、ストレスとして溜まっていくのでした。
相手の弱さを受け入れることが相手の気持ちへの理解につながる
ただし、相手は『審判』でも『先生』でもなく、人間です。ですから質問を受けた時毎回明確な回答や反応ができるとは限りません。
結構曖昧なイメージを形にするのって、ASDでなくても難しいことと聞きます。
確かに”いつもの感じ”がどんな感じなのか説明するとなると面倒でしょう。普段の様子から流れの中で多いケースを言うなどする必要が出てきますからね。
正確な度合いを毎回考えて決めることも大変なことです。それを”適当”で片づけてしまおうとすることがあるかもしれません。
どうしようか迷ってしまい、その場で明確な反応が取れないこともあるでしょう。
このようなときに相手に毎回完璧な反応を求めた場合、僕はそれもまた、『差別』だと考えています。『できて当たり前』という価値観を相手に押し付けているわけですから。それを求めていたら僕たちもやれ『個性』や『できなくて困っている人がいる』『頑張ってもできないことがある』…こんなことを言う権利がないわけですよ。
自分の『できないこと』だけ理解を求めて、相手の『できないこと』を受け入れない。これは良いことだとは思いません。
『だから障害者は…』のようにカテゴリで決められるとムカつくのと同じで、『健常者なんだからできるだろう』という思い込みもまた、相手を不満にさせているかもしれない、ということです。
では、曖昧な指示や反応に対してはどうすればいいのか?
こちらからも自分が理解しやすいように歩み寄ることが大切
『では、曖昧な表現を受けた時にどうすればいいの?』ということになりますよね。答えは『理解しやすいように自分からも歩み寄る』です。受け身でいてOK、ということはないと思います。
これはどういうことかと言いますと、具体的には下記のような行動です。
○曖昧な言い方に対し、『どうしてわかりやすく言えないんだ!』という不満を持たない(明確に言えることが当たり前と思わない)
○自分が分かるようにこちらからも質問をする(「それは○○という意味ですか?」と確認するなど)。相手がかみ砕いて説明しやすいようにサポートをする
○あらかじめどんな話し方が分かりやすいか、周囲にも伝えておく
○相手を極力悩ませないよう、報連相の際には事前準備をしたうえで伝える
○メールなどの文面でのやり取り中心にするようお願いする(文面であれば、曖昧な表現を受けることが少なくなりやすい)
このような工夫をASDを持つ人側もした方が良いのでは、と思います。
おわりに
いかがでしたか。
どうしても障害者雇用などですと、権利意識が強くなりがちです。
というより頼り過ぎてしまうために、本人の自覚がないところでそうなってしまっている、の表現の方が近いでしょうか。
障害者雇用として僕が経験した職場では、『理解して当たり前』かのように、配慮ができる人間を『合格』、できない人間を『失格。あいつは分かっていない』とジャッジしている障害者雇用の方がいました。
当然相手も人間なので、(嫌な思いを受けていれば)相手もその方に『配慮したくない』と感じることもあります。この時も最後には当の障害当事者本人が体調を崩して休養に入ってしまったのです。
配慮を受けないとしんどいこともあるでしょう。しかし相手に求め過ぎることは、反対に『健常者への差別』にもなりかねないのではないのでしょうか。
だからこそお互い「できないものがある」ことを受け入れ、そこで初めて機能的に配慮ができるようになる…と僕は考えています。
この僕自身も相手に対して『どうしてそれができないんだ!?」と未熟にも思ってしまうときがまだあります。ですから僕も少しずつ、受け入れられるように努めます。
逆に言えば、僕ら当事者も、俗にいう「定型」の方をサポートする場面がもっと出てきても良いと思っています。
【セットで読むと良いかも】
コメント